2009年10月16日 (金)

ありのままにいる 

 誰もが、ありのままの自分を受け入れてもらいたいと思っているのです。

 審判されないで。

 「何かをしてくれるから好き」なのでもなく、「美しいから好き」なのでもなく、

 欠けたところばかりの、情けない私を好きになって欲しいと願っているのです。

 だからまず、自分自身のありのままを受け入れましょう。

 そして目の前にいる人のありのままの存在を受け入れましょう。

 悟り」とは、「~せねばならぬ」、「~でなければならぬ」という自縛から解かれた、

 自由な心の境地を言うのだと、今朝通勤電車の中で思いつきました。

 私は人から好かれるために、できるだけ良い人になろうとしてきました。

 父の前では良い娘、祖父の前では良い孫。

 先生の前では真面目な生徒。クラスの中では面白い人。

 夫の前では良い妻。義理の父母の前では良い嫁。

 会社では勤勉な社員。

 好きな人の前ではめいっぱい魅力的な私であるよう努力してきました。

 人に好かれるために、弱いところを見せないよう、情けないところを見せないようにしてきました。

 でも、まわりを見渡せば、弱いから好かれている人がいます。

 どうしようもなく情けない人だからこそ、ほうっておかれない人もいます。

 人間の世界は理論通りには運ばない。

 一筋縄ではいかないのです。

 それに気付けば、おのずと肩に入った力も抜けようというものです。

 正しくある必要なんてないのです。

 良い子である必要なんてないのです。

 失敗して醜態をさらしてもいいのです。

 同じ過ちを何度もくりかえす愚かさを持っていてもいいのです。

 

 正しくあろうとすると、裁かなくてはならなくなります。

 他人を裁く鋭利な剣は自分の魂をもぶった切って、自分を殺してしまいます。

 だから、ありのままでいいのです。

 良いも悪いも、かっこいいも悪いも、みんな含んだまるごとの「私」として、「あなた」として存在すればいいのです。

 まるごとの私から、まるごとのあなたへ挨拶を送ります。

 あなたがどんなにいびつな形をしていたとしても、

 私はあなたが大好きです・・・。

 

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優しさとは何か

 私には優しさが欠如しています。

 人も動物も、命あるものは皆大切にしたいと思いますし、行きずりに困っている人や動物には親切にできます。

 でも、継続的に付き合う間柄で迷惑をかけられるのはいやなのです。

 迷惑というのも「お金を貸して」と頼まれるのは断れるからいいのですが、厄介だと感じるのは「もっと愛して」という無言の要求です。

 そういうとき「うっとうしいなあ」と思っている自分をみて、優しさが欠如しているなと思うのです。

 それほど好きでない人に優しくできないのは、まあ、しかたがないとしても、好きな人にさえ、私は優しくはないのです。

 「もっと優しくできるはずなのに、私は芯が冷酷なのかなあ」と思うときがあります。

 もうあと一歩踏み込んで寄り添ってあげればいいところを、すっと引いてしまうようなときです。

 もちろん言い訳はできます。

 「大人同士なんだから、あまり踏み込むのもどうかと思って・・・」という言い訳です。

 でも、人間そんなに大人なわけじゃありません。むしろ、弱っている部分はこども同然です。

 おおげさかもしれないけれど抱きしめてあげるくらいでちょうど良いのかもしれないのです。

 そんなふうに、自分の心の冷たさをなんとかしたいと思っていたときに、A・スマナサーラという人が書いた本当の優しさについて書かれた本を読むことができました。

 正しく理解しているかどうかわかりませんが、私が理解したところによると「優しさ」とは、「私だけが良ければ良い」というエゴイスティックな考えがなくなった状態になってはじめて取ることができる態度(行為)なのでした。

 「私がしあわせでありたいように、あなたもしあわせでありたいよね」という他人への認識があってはじめて、できる行為。

 ただし、「私のしあわせはそっちのけにして、あなたのしあわせのために尽くすわ」というのは、本当の優しい行為とは言わないようです。

 それでは相手に気持ち的に負担をかけるし、第一長く続かない。

 自分のしあわせをそっちのけにするなんてこと、人間の本性に逆らう状態だからです。

 もしも自分のしあわせをそっちのけにして相手のしあわせに尽くすというなら、そのあとで、尽くした以上の行為を相手に要求するようになるかもしれません。

 「私はあなたのためにこれだけのことをしたのよ。だからこれくらいのことしてくれてもいいんじゃないの?」という具合です。

 それでは商取引になってしまいます。

 見返りを期待してする優しい行為は、本当の意味での優しい行為ではありません。

 私は恥ずかしながら嫉妬心のために死にそうになるくらい息苦しい思いをすることがあるのですが、そういうとき努めて「私がしあわせになりたいように、あなたもしあわせになれることを願います」と心を方向付けします。

 今はまだ跳ね上がろうとする心を力でねじ伏せないと、そのように思えませんが、いつか宇宙に心を同調させることができるようになれば、なんなく、そのように思えて、微笑むことができるようになるでしょう。

 

 

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2009年9月13日 (日)

恐れに飲み込まれないために

 恐れに飲み込まれてしまわないように、自分でできることは、まず、自分が何を恐れているかを知ることです。

 たいていの人は、漠然と恐れを感じた時点で逃げ出してしまって、自分の心の中にある恐怖をみつめようとしません。

 でもそれでは、いつまでも逃げていなくてはならず、問題は一向に解決しないままになります。

 

 まず、できるだけゆっくり考えられるように時間を取り、一人になれる場所に行きます。

 そして、白紙とペンを手元において、できるだけ穏やかな気持ちになって考え始めます。

 このときあなたがもし天使の存在や神さまの存在を信じているなら、天使や神さまに同席してもらいましょう。

 まず、何に対して恐怖を感じているのかを考えます。

 「借金を返せない」とか「恋人(伴侶)と別れ話が出ている」とか、具体的な事柄が思い浮かぶでしょう。

 このとき、次に考えることとして、借金を返す方法や、恋人(伴侶)と別れずにすむ方法を考えるのではなくて、「借金が返せなかったときどうなるのか?」「恋人(伴侶)と別れてしまったらどうなるのか?」を考えてみるのです。

 そのとき、どうなるのかが具体的にわからないので恐れが起こってくるのです。

 なんだかとても悲惨なことが起きそうな気がして、思考がストップしてしまいます。

 社会的に恥をかくとか、友達を失うとか、色々思いつく限り、起こりそうなことを書き出していきます。

 そしてその一つ一つに、それはそれほど恐ろしいことなのかを考えていきます。

 借金を払えない場合受ける法的制裁がわからないことが不安を産み出しているなら、そこに「調べる」と書いて次に進みましょう。

 恥をかくとして、それはもうしかたのないこととして受け止めましょう。

 一時的に恥ずかしかったとしても、その後やり直せます。

 友達を失うことは悲しいことですが、そんなことでいなくなる友達は友達ではなかったのです。新しく、本当の友達を作るべく真面目に生きましょう。

 助けて欲しいなら、助けてくれそうな人や団体にコンタクトを取ればいいのです。

 あなたが恐れている最悪なことはなんですか?

 死んでしまうのでないかぎりは、人生は必ず続くし、時間の経過のなかで、人生を良い方向へ向けて行くことは可能なのです。

 生きて、全く新しい時間を使えることを神さまに感謝してやり直しましょう。

 そして問題を分析して、借金を返す方法や、恋人(伴侶)と別れずにすむ方法を考えて前向きに対処していきましょう。

 この方法を用いれば、あなたはもう恐怖を味わい続けなくてもいいのです。

 問題は恐ろしいものではなく、単に解決すべき事柄でしかないと理解できるようになります。

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2009年9月12日 (土)

恐れるなと主は言われる

 恐れるなと主は言われる。

 だから私は恐れない。

 

 人にできることは私にもできる。

 この世の中のしあわせな人をすべて数えよう。

 この世の中の成功者をすべて数えよう。

 私もまた彼らのようにしあわせに、成功者になれるだろう。

 神に祈れ、天使に助けを求めよと主は言われる。

 常に私の心の中に住んでおられる神を礼拝せよと主は言われる。

 宇宙の内も外も創造し、今もその存在を支えておられる神が私の中で私を支えてくださっていることを知って、自分自身が何者なのかを知れと主は言われる。

 神とともに在れば、私にはすべてが可能だ。

 だから神とともにいなさいと主は言われる。

 何事も神を振り返って行えと主は言われる。

 神がそこにおられて、

 私を支えていてくださっている。

 宇宙にあるすべてのものは私のために用意されている。

 私はただ、欲するものを伝えるだけでよいのだ。

 本当は私が神に仕えなければならないのに、

 神ご自身が私のために考え、働いてくださる。

 天使たちが神の使いとしてたくさん来てくださる。

 神と親密になれと主は言われる。

 天使と友になり、

 神と親しめと。

 神を恐れることはないのだと。

 神は父だと言ったではないかと主は言われる。

 神を尊敬するのは良い。

 だからといって遠巻きにすることはないのだと主は言われる。

 天使はあなたを助けるために存在しているのだから、

 なんでも頼めと主は言われる。

 コンビニエンスストアの店員のように、天使は気さくにあなたの頼みを聞いて、

 郵便配達夫のように、あなたの願いを神に届け、神からの贈り物をあなたに届けてくれるだろうと主は言われる。

 古くさい2000年前のたとえで話さないと主は言われる。

 現代に生きるあなたとあなたの友のために、神も天使も現代風に働いてくださるのだと主は言われる。

 だからあなたも、 神や天使を古くさい装束でイメージするのはやめなさいと主は言われる。

 あなたの携帯電話は神につながるし、

 あなたのパソコンは神のwebにアクセスできる。

 神はどこにでもおられる。

 同じように天使たちも、ガソリンスタンドにもマクドナルドのカウンターにもいる。

 いつでも、どこにでも神を見い出しなさいと主は言われる。

 見い出そうとするならば見い出せると言われる。

 神はいつでも、あなたのすぐそばにいて、あなたを力づけ、助けようと構えておられる。

 だから心配せずに、遠慮せずに、あなたは生きなさいと主は言われる。

 あなたの進む道から躓きの石を取り除こうと主は言われる。

 

 あなたは心配せずに、進みなさいと主は言われる。

 あなたは進まなくてはならないと主は言われる。

 恐れずに、

 進みなさいと、重ねて主は言われる。

 何も恐れることはないのだと。

 神は何でもできるが、あなたの代わりになることだけはできないと主は言われる。

 なぜならば、

 神はあなたとして生きるために、あなたを作ったから。

 神があなたの代わりに生きるなら、あなたの存在は必要がなかったと主は言われる。

 どうしてもあなたでなければならないのだと主は言われる。

 あなたにしかできないことがあるから、あなたがいると主は言われる。

 どんなに恐くても、体全体が縮んでしまいそうなくらい恐くても、

 その恐れを克服して欲しいと主は願われる。

 そうして初めてあなたは門をくぐることができるのだと。

 あなたが帰還するべき街の門を。

 あなたが神に再び出会う街の門を。

 あなたにとって喜びの門を。

  

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神と同調する(改)

 私がイメージする神は、柔和で物静かな、慈悲心そのものの方です。

 図としては、優しく微笑むイエス、静けさの漂う観音像、羽根を広げた天使、常に私たちを助けてくださろうと祈ってくださっている「絶えざる御助けの聖母」。どこまでもイエスに従った女の弟子、マグダラのマリア・・・などです。

 イエスもお釈迦様も、共通点は思い煩わないところです。

 彼らはこの世の本質をみつめ、枝葉末節にはこだわらかったのでした。

 いつもベストを尽くし、不平不満を言わず、先のことで思い煩うことなく、誰の悪口も言わない。

 私も神と同調して、そんな人になろうと思います。

 

 

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2009年9月 8日 (火)

仏教系キリスト教徒としての自覚を持つ

 仏教系キリスト教徒とはまた面妖な立場ですが、簡単に説明しますと、仏教哲学を持ちながらイエスの福音を信じ、創造主である神を信仰する立場です。

 会社の昼休み、ルカ伝やヨハネ伝を読んで見て感じたことですが、いつでも「自分はキリスト教徒である(主に倣って、主の道を歩く者である)」という自覚を持たなければならないとと。

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2009年9月 5日 (土)

神さまは誰を愛するのか?

 神に愛されていると言うことを信じられない人はたいてい、「神さまは善人しか愛さない」と思っています。

 でもそれは間違いです。

 神はあなたや私、その他全てを作り、一回作っただけでなく、ずっとその存在を支え続けておられるのです。

 あなたや私が悪いことをしても、悪いことを考えても、そんなことに関係なく神は私たちの存在を支え続けてくださっているのです。

 「私は善人でないから愛されない」とは考えないでください。

 自分のなかに自己否定する気持ちがあったとしても、神までもがあなたを否定しているとは考えないでください。

 神は地球や宇宙や時間を支えておられる同じその手で、あなたの存在を支えておられるのです。

 良いことや悪いことのカウントなど本当のところ神も天使もしてはいないのです。

 あなたを産み出し、あなたを存在させ続けることであなたへの愛を証明しておられる神を信頼してください。

 あなたは何をしてもかまわないし、何を考えてもかまいません。

 あなたは完全に自由で、あなたが何をしたからといって、神があなたを愛さなくなるなどということはないのです。

 ただ、もしもあなたが神を知り、神から愛され、神から大切にされ、神が身を挺してあなたを守ってくれているということを知ったなら、あなたは神の愛に反するようなことはしなくなるでしょう。

 神からの愛に自らの愛で応えたくなり、神を愛するがゆえに、神が愛しておられる全て(他人や動物たちや、自然や、地球や、宇宙そのもの)を、神と一緒に大切にしたいと願うようになるでしょう。

 善人になるために善を行うのでもなく、褒められたいから良い子になるのでもなく、ましてや天国行きの切符を手に入れるために善行を重ねるのでもなく、あなたは自然に自分の心に従って神の行いを行えるようになるのです。

 急ぐ必要はありません。

 わかっていないのに「わかった」と言う必要は全くありません。

 悟れていないことを苦にすることもありません。

 いずれ木の実が熟するように、時がくれば理解することができ、悟れます。

 

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自信の基(もとい) 2

 自信についてまた考えてみました。

 自信とは自分を自分が信頼できることです。

 そのために必要なことは、アイデア(考え)を実践して実現することではないでしょうか?

 やりかけたことを途中で投げ出してしまっては自信にはなりませんから、「しよう」と思ったことは必ず完遂しなくてはなりません。

 完遂するためには目標が高すぎては気持ちがくじかれてしまうので、細分化して、実現可能な目標にまで小さくします。

 そして目の前目標を一つにして、一つ一つ確実に実現化して行くのです。

 しようと思ったことが実際にできることほど自信を深める体験はありません。

 

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2009年9月 3日 (木)

自信の基(もとい)

 今朝通勤電車の中で、知花くららさんの笑顔を思い描きつつ「いつも笑顔で」という言葉を呪文のように、心に染みこませるように、何度も何度も繰り返していました。

 そしてふと、「どうして、いつも笑顔でいられるんだろう?」と思ったのです。

 知花さんに限らず、いつも笑顔でいられる人がいたとしたら、その人たちはどうしていつも微笑んでいられるのでしょうか?

 日々の暮らしの中では、いつも微笑んでいられるような瞬間ばかりではありません。

 苦境に立つというようなときもあるでしょう?

 なのになぜかいつも端然と微笑んでいられる人が私のまわりにも、歴史上の人物にもいます。

 彼らはなぜ、そのように自然に微笑んでいられるのでしょう?

 彼らはなぜ、驚いたり、怪しんだり、おろおろ我を忘れたりしないのでしょう?

 なぜ彼らは悲しみに飲み込まれてしまわないのでしょう?

 それは彼らが、決して崩れることのない基に根ざして立っているからだと私は思いました。

 その基とは「私は神さまから愛されている」ということを、知っているということです。

 自分は神さまから愛されており、神さまに守られている。だから人生における何事も、何一つ悪い結果にはならないということを知っているのです。

 それは空っぽの箱のなかに何かがあると信じるような、賭けのような行為ではありません。

 箱の中には神さまからの愛がぎっしりと入っており、その箱は彼らの心の中央にしっかりと据えられているのです。

 「主は私の助け手、

 恐れることはない。

 人が私に何をなし得ようか?」(ヘブライ人への手紙)

 すべてを創造なさった神から個人的に愛されていることを確信できることが、人の心に揺るぎない自信を産み、自信のある人だけが、どのような場面であっても慌てず騒がず端然と微笑んでいられるのです。

 いつも笑顔でいるということは、単に顔の表情を作ることではないのです。

 存在の深い、深いところで神に(宇宙に)繋がっていることを知っているということなのです。

 

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2009年9月 2日 (水)

いつも笑顔で・・・楽観主義のすすめ

 今日美容室で女性誌を読んでいたら、知花くららさんの紹介記事に「いつも笑顔」という言葉がありました。

 彼女のことは写真で見るくらいにしか知らないのですが、その笑顔がとても素敵な人だと思います。

 仕事柄の笑顔というよりは、本当に自然に微笑んでいて、それがとても健康的に見えるのです。

 私は知らず知らずのうちに難しい顔をしていることが多いので、ぜひ彼女を見習って、いつも笑顔でいるようにしようと思いました。

 そして楽観的に物事を見ることもしていこうと思います。

 深刻になりそうな場面でも、楽観的に受け止めてみる。

 何があったとしても最悪の事態になってそうそうなるものではないのです。

 仮に最悪の事態になったとしても、そこから助かる道は必ずあるのです。

 だから、先のことを思い悩んだりせずに、楽観的に過ごしましょう。

 イエス様もおっしゃっています。「明日のことは明日に思い煩わせれば良い」と。

 

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